言語化できない映像作品『SIGNAL』 改めて、映像って何を伝えるものなんだ?って考えた
おそらく記事を先に読んでから映像を見る方は少数派だと思いますので、
『SIGNAL』を観て頂いた前提でお話をしてみたいと思います。
唐突に質問ですが、皆さんは、
この映像作品を観て何を感じられましたでしょうか?
ちなみに、こちらから解答を提示するようなことはありません。
なぜなら、最終的にも自分自身にとっても明確に言語化できないからです。
なぜこのカットの次にあのカットが来るのか?
絵を描く場面と海の場面がなぜこのように接続されるのか?
そもそも、この作品によって視聴者が何を感じとるのか、
今回の作品ほど作品のロジックを言葉で説明できないものはありませんでした。
しかし同時に、「これしかない」という感覚も強くあり
編集自体はそこまで迷わずゴールにたどり着いた作品でもありました。
すごく感覚的な作品であると同時に、難解に感じられる方もいる作品かもしれません。
ちなみに自分の妻がこの作品を観ての感想は、「映像と音楽が渾然一体となって…エモいね」でした。
エモい。
翻訳しようとすると、グッと来るとか泣けるとか?英語のCOOLくらい包括的なニュアンスの言葉な感じもある。しかしエモいとしたら…何がエモかったんだろう。
五十嵐大介さんが絵を描く場面を撮ること
今回の作品は、日本を代表する漫画家の一人であり、漫画表現の可能性を切り開いてきた五十嵐大介さんに、多大なご協力をいただき成立しました。漫画がもともと大好きで、今でも月に2万円分くらいは漫画を購入している自分としては、今回様々なご縁があって五十嵐大介さんに出演いただき、目の前で絵を描く場面を撮影できた本作は、もうそれだけでスペシャルなものです。
五十嵐大介氏のプロフィール
1969年埼玉県生まれ。漫画家。高い画力と繊細な描写で自然世界を描く。2004年『魔女』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞。2009年『海獣の子供』で第38回日本漫画家協会賞優秀賞、第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞。同作は2019年にアニメーション映画化され話題に。
ところで、代表作『海獣の子供』をはじめとする五十嵐さんの漫画が表現しているものについて、一旦どれだけの人が言語化できるでしょうか。五十嵐さんのファンを公言する方のコメントなど見ても、やはり形容する言葉の難しさが自覚としてあった上で、本質の周辺を回遊して探りながら語っているように感じます。でもそれは、自分も同じくです。あえて言えば、言語化できない感覚を表現しているからということなのでしょうか?
そして原作と同じように非常に高い評価を受けるアニメーション映画『怪獣の子供』についても、その映像表現のクオリティの高さと同時に、ストーリーを理解することが一筋縄ではいかない作品であるというコメントもよく目にしたように思います。映画の公式HPの中で著名人コメントで様々なコメントがあるのですが、2つのコメントを抜粋させていただきます。
「1秒も観逃していないはずなのに、愕然とするほどわからなかった。それでも目、耳、におい、肌、体温、心臓、身体の全てがわかりたい、わかっていると熱くなった。矛盾している?それが映画だ。」(枝優花/映画監督)
分かるー!!そう、愕然とするほど分からなかったという感情と、でも、世界の真理を理解したような感覚が同居する不思議な体験でした。これは原作を読んでも映画を観ても感じた感覚です。
その他、様々な方々がその圧倒的体験から受けた感動や衝撃を各々の言葉で表現しようとしているのですが、やはり皆さん言語化の限界をどこかで感じながら賞賛のコメントをされているように感じます。その中で興味深いコメントを書かれていたのは、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズでおなじみの映画監督・山崎貴さんのコメントでした。
「明らかに何人もの人生の少なくない時間を差し出さなければ得ることが出来ない世界がそこにはありました。
人が手で描く事でしか得られない映像…それは世界の秘密を語るのに、こんなにふさわしいものだったのかと改めて思いました。(以下略)」(山崎貴/映画監督)
このコメントは、作品から受け取った言語化できない感情と向き合いながらも、よりこの作品を作るに至った作り手へ想いを馳せ、絵という人間の根源的な創造行為と、映像という表現が人に与えうる可能性を言い得ているように感じます。
そう、自分も同じことを思っていました。
絵を描くという行為を通して、言語が生まれる前から存在する世界について理解しようとするアプローチを、五十嵐さんの作品に感じるのです。
では、そんな五十嵐大介さんの絵というこれ以上ない素晴らしい題材を得た上で、『SIGNAL』はどのようなアプローチをとったのでしょうか。
さらに言えば、絵を描くという行為をあれだけ突き詰めた漫画作品群が既にあり、そしてアニメーション映画『海獣の子供』という、漫画原作の映像化としてこれ以上無いと思われる作品が生まれた後に、自分は何ができると考えたのでしょうか。
絵を描くこと、映像で映すこと
この作品『SIGNAL』は大きく3つの要素に分解できます。
- その1、実際の海中や波打ち際の風景。
- その2、漫画家五十嵐大介さんのアトリエでの描画シーン。
- その3、そこで描画された絵を動かしたアニメーション。
1は純粋な自然物です。人間がおらずとも成立する、絶対的な存在としての自然です。
2は、人間の創造的行為のうち原初から在る作業である「絵を描く」という行為を映し取っています。しかし、鉛筆は言い換えれば炭素ですし、紙はもともとは木からできています。人の営みでありながら、自然物をすごく感じる行為でもあります。特にそれは、マクロレンズを使った接写でより強調されて感じることができました。パッと眺めるとものすごく精緻に感じる五十嵐さんの絵をクローズアップすると、実はただの線の集合体であり、記号的であり、極論すればただの物質の組み合わせで在るとまで感じるようになりました。
そして3は、もっとも自然からは離れた作業です。アニメーションという作業は、現実の時間の流れとは一切を共有しません。1と2は実際に存在した瞬間の追体験ですが、3は実際に存在したことは無く、あくまで「映像」という世界の中でのみ成立しています。また、その存在も知覚も、あくまで人間に向けられた行為です。
この3つの要素。
実は全く異なる性質を持つものを一緒に並べて提示することができるのは、実は数ある表現行為の中でも、映像表現にしかできないことのように感じます。並べ方次第で様々に意味が生まれ、人間の知覚・認識に強い影響を与えることができる点は、古来より映像という表現の特性であり、時に悪用もされる非常に影響力の強いものと考えられてきました。
まさに、自分も今回の映像制作を通して、今までの人生や体験で漠然と感じていたことを表現しようとしました。そのために、「異なる素材を並べることで新たな意味を生み出す」という、映像表現のもっとも基本的な価値に立ち返って、そこで勝負したのです。
言葉も無くドラマもないシンプルな作品に見える『SIGNAL』は、一つ一つの要素はただの世界そのものの描写であり、人間の自然な営みであったものが、その並べ方によって、言語化できない感覚を観る人に与えようと試みた作品、と言えるのかもしれません。
それが、映画『海獣の子供』とも異なる、自分なりのアプローチでした。
映像を作る作業が、自分にとっても識る工程だった。
今回の制作を通して自分自身も、海や自然について、絵を描くという営みについて、五十嵐さんの絵について、色々なことを識ることができました。観ていただいたあなたはどうだったでしょうか。言語化できない何かが心に生まれていたとしたら、それ以上の喜びはありません。
そしてもし、この作品について何かしら言語化できたという人がいましたら、是非その言葉を教えて欲しいです。
心からお待ちしております。
- Twitter:
- 嶺 隼樹(@junkimine)
- bacter(@bacter_es)
- Instagram:
- bacter(@es_bacter)