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無表情という表情について

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無表情という表情とは

 

bacterでは作品が完成後、技術/トレンド/ナレッジなどの共有を目的にしたエレファント会議で完成した作品が発表されます。その際、エレファントストーンのエグゼクティブディレクターからこんな言葉をもらいました。

 

「無表情もっと撮れたんじゃないか」。

 

その言葉を聞いたとき、「なるほど」とかなり納得しました。しかし、映画における無表情とは何か…。

「無表情」とは、表情が無いことを含意しています。しかし、映画においては、「無」という修飾語がついていながら、表情はなくなっているわけではない、むしろ「無表情という表情」こそ、映画における無表情は表現していると思います。

 

無表情という表情。この短い文章では語りきれないほどの、映画の謎に迫る大きなテーマです。

この短い文章では、そのさわりの部分に触れられたらと思います。

 

顔を撮るに適した4:3

 

『南極』では、16:9ではなく4:3を選択しました。顔を撮りたいというのが、そう選択した理由です。女性キャストの顔、ボウガイズの顔。

4:3は、16:9に比べて、サイドスペースが削られた画角です。映画の初期はむしろ4:3が基本だったので、「削られた」と感じるのは、16:9が基本となった現代だからこそ、感じられる感覚です。だからこそ、今、4:3を採用することは、なおさら、画面が狭い印象を与えます。

 

人間の身体は、16:9よりも、4:3に収まりやすいです。例えば、身体は縦長なので、16:9(ましてやシネスコだと)、横にデッドスペースが生まれてしまいます。

*人物に対してデッドスペース(余白)に入る背景が多くなるからこそ、人物を表現する際、「その場所にいる人物」を表現しやすくするという側面もあると思います。

一方、4:3は人間の身体、特にその顔にはまりやすい画角です。サイドにデッドスペースが生まれません。だからこそ、デッドスペースに注意がそれることなく、人物に対して無駄なく注意を払わせることができます。

 

無表情の巨匠 ブレッソン

 

最初に、4:3という画角について話したのは、個人的に無表情をこれまでかと表現してきた映画史の歴代の作家の多くは、4:3を(時代的に?)採用しているからです。無表情の巨匠ともいうべき作家、ブレッソンの映画を見てみましょう。

 

ロバート・ブレッソン『スリ』

 

このシーンは、スリに手を染めてしまい留置所に閉じ込められてしまった男に、男と恋仲の女性が訪問するシーンです。驚くべきは、その悲しく感動的なシーンにもかかわらず、二人の男女は、喜びも悲しみも怒りという感情を、表情に全く纏わせていないように見えることです。

このシーンの登場人物が纏っている無表情。それは、「怒りの表情」や「悲しみの表情」や「喜びの表情」とは全くことなる感覚を視聴者に感じさせます。

 

怒り、悲しみ、喜び、それを表現する演技は、視聴者の登場人物への見方を決定づけます。視聴者は、表された表情以外には、何も読み取る余地はありません。しかし、無表情という表情に直面させられた視聴者は、その向こう側を感じざるおえません。怒りでも悲しみでも喜び、確かにそのどこかにありそうでありながら、また、そのどれもが混ざり合っているようでありながら、確固とした見方の手がかりは与えられず、その全き無表情の前に立ち止まり、うなだれる。

ブレッソンを観ていると、優れた映画表現とは、無表情の中に、登場人物の途方もない生を感じさせることだ、と考えてしまいます。

 

星野源『折り合い』の無表情

 

三宅唱さんが監督した星野源のMV『折り合い』での無表情もとてもいいです。

 

ブレッソンは、劇的なドラマが生まれるところで、登場人物に逆説的に無表情にさせていますが、このMVでは、普通の日常の中の普通の無表情を撮っています。

1:10~の無表情がとてもいいです。何を考えているのかわからない。なんにも考えていないのかもしれない。その無表情の表情を見ているだけで、その未明の空間に吸い寄せられるように感じます。言葉にできないことの豊かさ。その無表情の豊かさに引き付けられてしまいます。ここでいう豊かさとは、様々な見方感じ方を限定することなく、見る人各々に様々な感情を感じさせる余地を十分に持っているということです。

 

いつか、こういう無表情を撮ってみたいものです。